暗黙知×暗黙知の場もいいかもしれない

最近考えていることに対して重なってその考えていることを深めたり、意味付けされたり、いい感じに混ぜこまれたりしているんだけど、後少しなのか、もやもやしている…。ので走りがいてみる。

私が関わっているコミュニティのIORIもDevLove.Pubも、プロジェクトファシリテーター協会も働き方研究所もアウトプットとして、「そのもの」を描こうとして、なぜか割りとすっきりとはいかない感じ。誰に何をどう伝えるか…。これがあって道が見える。けど、それが書き手の描きたいものになってるかは分からない。そこが難しくしているかもな。読み手を見ている編集者やライターの人たちの感覚がすごいなと感じてる。

話は少し変わるけど、研修で暗黙知形式知にしようとしたりはしてみてるけど、人が自分の現場で使うようになるには、形式知を自分事しなければ使えない様な気がしてる。先日主催した「オトナノ部室(知のフリマ平日版)」というイベントでは、自分の暗黙知を人が聴く形式になるけど、その人の暗黙知として受けとるか、スルーするかなだけで、影響されたりして更なる暗黙知になるかは話し手には何のプランも期待もないことが、聴き手の暗黙知に繋がりやすいかもとか思った。人が物事や仕組みを「理解」するのは、人がその人自身の感覚・人生背景・価値観を持って「理解」するから、まったく全く同じ理解にならないはならないのなら…。分かりづらいのだけど、「どう受けとるかは分からないけど、受け取り方は任せるから、伝えたい。」となる。

 

なぜ伝えたいのか…。よりも、なぜ聴きたいのか…。を中心にした方が聴き手が現場で活用できるのかもしれない…。

 

それから、私が最近、勉強会やイベントで対談形式がいいなぁと思うのは、もしかしたら話し手が一人ではなくて複数だから暗黙知暗黙知がぶつかっていて、きっちりしてない曖昧さというか隙間があって、聴き手の暗黙知になりやすいのかも知れないからか…。正しく間違いなく受け取らないといけない、間違うのが怖い世代にとって、曖昧さにこそ「考える」ことが発動できるのかもしれない…。話し手が一人だと、正しく理解しようとする。事例紹介を背景含めて正しく覚えても、あまり意味はないのかも知れない。その話に頭の中で自分の暗黙知をぶつけると良いかもしれない。物語を物語のまま受け取っていた頃の自分は「ザ・ゴール」が読めなかった…。でも「シンクロニシティ」は読めた。今なら「ザ・ゴール」も自分の暗黙知と対話しながら読めるかもしれない。(^-^;

 

「教えない教育」には主体性が必要だと思い込んでいた…。考えることが必要だと思い込んでいた。

 

「気づけばなにやらどうにも考えてしまっていて、そういうことなら頭にうかんでしまっている自分の考えをぶつけてみたい。もしくはそれに反応がほしい…。」

 

こんな感じかな…。