「話さなくてもよい」という場のファシリテーションがある

今夜は以前から誘われていて興味を持ち始めていた「円坐」なるものに参加してきた。「非構成」の場であると知っていて参加しましたが、いい体験ができたなと。

話すことと思考することは違うとか、今日はまさに私は自分の名前を「高柳」と名乗っただけでしたが、場との、そして自分との対話は時間みっちりできました。

遅刻もしてしまったので、場に途中から入る感覚も得られたし、関係性、位置どり、言葉を発していないという状態、ファシリテーターの振る舞い、話さなくてもよいという感覚、目をつぶること、何のために場に言葉をだすのかということ、場というか人というか、対話の場を整えるというか、テーマやコンテンツでないいろんなものを観て、聴いて、語った気がします。

ま、それすら共有せずに帰ったので、「誰?何?」とある意味失礼な参加者だったかもですが。( ̄▽ ̄;)

都立大学駅までの道がまた風が気持ちよくて。

サトシさん、ありがとう。

あ、話さなかったのは、いじわるではなくて、話したくなったら話すという場に素直になりました。言葉として発するのは、伝えたいからなんだなぁと知りました。

そもそも私はファシリテーターの時に話過ぎてるなとも。

帰り道は長いから、もう少し書きます。

関係性が場と人とテーマによって、再構成されていない状態を明確に意識できた気がしました。

最初、知り合いは一人だけで場に遅れて入った時、やはり疎外感はあるんだけど、非構成と意識して来たから、遅刻者すらも遅れた罪悪感は少なくすむのかな...とか考えながらいましたが、ムリ。(笑)
やはり場がどうなってるのかわからないと、自分の性格もあって、何もできない。しかも、勝手に場を乱したことを怒っているかもしれないなとかフィードバック全開。( ̄▽ ̄;)
しかも、沈黙が発生してるから、さぐりさぐり...。

時間がたって、一人、また一人と言葉を発していくと、自分の受ける重さみたいなものは軽くなっていって、自分以外話したら、かなり晴れやかに。

そしてそこから自分だけが言葉を発しない状況に...。たまたま今日の場以外の関係性が自分以外の方々にはあったりしたので、自分の話を伝えるために必要な時間や話題の選び方を考えると、なんとなく「面倒くさいなぁ」と。( ̄▽ ̄;)

場への貢献って何?というか、空気を読まないタイプになってました。

自分の在り方については、横に置いておくと、そういう存在が居たときに、もしかしたら、誰でもわかる一般的な話で共感を見いだそうとかもする可能性もあるなとか、場に在る(居る)ものは全て影響しあうなぁとかも考えたりしました。

なにより「話したくなければ、話さなくていいですよ」という自分も関わるとある場でのファシリテーションが、こんなにも大事というよりも、居心地に影響することが分かりました。

なかなか2時間以上の場で、言葉を交わし合わないでよい場もないですから...。

そんな自分に対して、問いかけもせずに居させてくれた場に、参加者に感謝。