ファシリテーターを活用する時代になってきた

11月08日(日)にCode for Japan Summit 2015に行ってきました。

10日ほど前にに知人からFacebookで「Code for Japan Summit 2015の中の1つのセッションファシリテーターを必要としているんだけど…」とメッセージがありました。もちろんファシリテーションの依頼は断るわけもなく、期間も迫っていましたのと、知り合いからの依頼なので、詳しくは当日までに詰めようと思って引き受けました。そして、当日までにパネルディスカッションがあることと、 アンカンファレンスがあってそこでのファシリテーターをお願いしたいことまではわかり、後は当日調整という形で挑むことになりました。

事前に打ち合わせの時間がある場合はもちろんやって詰めますが、割と緊急の場合は当日に状況を確認してファシリテーションすることもあります。私のファシリテーションを知って依頼してくれる人は、おそらくは私のやり方を好んでくれる方だろうということで、未来思考からのバックキャストであることや、参加者の対話を重視した場になると考えていろいろグッズ的には準備して向かいました。

そして当日、オープニング(10時開始)から参加させてもらい、オープニング後からすぐ依頼内容の確認と状況を確認していきました。確認できた依頼内容は結構想定を超えた内容で、14時40分から90分のパネルディスカションと16時20分から90分のアンカンファレンスをつなげたデザインになっていて、パネルディスカッションのテーマをそのままにアイデアソンを提案するというセッションをまたいだデザインの内容でした。そしてゴールは具体的なアイデアになっていること。というのも、このCode for Japan Summitというのは、各地で活動している「Code for ××」というたくさんのチームが発表するためのイベントで、このイベントとはまた別にそれぞれの想いを元に活動を続けているので、ゴールとしてはこのイベントをスタートにさらにどうやって活動していくかの方向が定まることが大事なのでした。

ちなみにこの依頼をしてきたチームは「Code for Cat」と言って【猫とともに考え、猫とともにつくる】というコンセプトの元、猫に関わる社会問題ITの技術で解決していこうというチームで、パネルディスカッションのテーマは「殺処分猫ゼロを目指す」というものでした。私がファシリテートする場でも社会問題を扱うものはありますが、生き死にを扱うのは多くはなく、そのテーマの重さにびびりながらも、参加者は猫好きという共感ポイントがあるから大丈夫だろうと高をくくってました。またこのCode for Japan Summitではグラフィックレコーダーというセッションを「グラフィック」で表してくれる人がついてくれるので、セッション間の内容のつなぎはグラフィックレコードに任せてみたいと思っていました。

そんな中で考えた案は、パネルディスカッションの最初の時間で「私が猫を好きな理由は」という内容で気持ちを高めてもらって、パネル後にパネルで聞いた話からアンカンファレンスで話したいテーマを書いてもらい、それをインプットの元にして、アイデアソンをやってもらうという内容でした。アイデアソンの名前は知人がつけた「キャットソン」そしてそこに「ゆるく、楽しく、猫らしく」というキャッチコピーを足して、依頼してくれた知人に確認したところOKもらうことができました。その後の時間は、どうやってインストラクションするかとか、ゴールまでのプロセスをどう組み立てるか、どういう人がくるだろうかとか、パネルディスカッションの内容から参加者が自分自身の考えを考えられるようにするためにはどうしたらよいかなどと、パネルディスカッションが始まるまで時間、あれこれ想像する時間として過ごさせてもらいました。

いよいよパネルディスカッションというところで、しっかりこういう連続のイベントでは起こる開始時間のズレと調整が発生。実際には15分弱の押しになっていて、これはアンカンファレンスにも影響出るなと思いながらも、しっかりズレた開始時間までの時間を「前説」として使わせてもらいました。パネラーの人も含めて「私が猫を好きな理由は」を書いてもらって、それを元に近くの人と話をしてもらうというアイスブレイクを笑いを入れながらやらせてもらいました。そしてその後のパネルディスカッションで私は、社会問題というものに対峙したイベントで起きる「深さ」と「真剣さ」、そして「怖さ」を知ることになったのでした…。

猫の殺処分ゼロという話と、猫が路上死するということについての話、そしてその猫に関わる社会問題に関わる方々の強いメッセージ…。そこには猫が好きだから…という感覚だけで参加している人たちが頷くことが少ない、もしかしたら知らなければならない話ではありましたが、知りたくはなかった…という関わる方の「感覚」までもが赤裸々に語られました。もちろん、パネラーの方々も様々な視点からの語りがあり、猫グッズを発売する中に寄付額を含めて、猫問題への資金援助を行っている話や、世代で関わり方も違ってきている話などがありました。それでもパネルディスカッションで知れる内容としては深くて衝撃を受けるものばかりで個人的には「すごいな」と思い、ファシリテーターとしてはキャットソン時のパネラーを含めた参加者間の「差」をどうすればよいのか、またどうすれば「ゆるく、楽しく、猫らしく」なアイデアソンにできるのかを、どんどん描かれていくグラフィックレコードを眺めながら考えていました。またさらにパネルディスカッションにもあるあるな、もっと時間いっぱいまで話を聞きたくなるという状況が発生し、課題書きは話を聞きながら…ということになりました。実はキャットソンの大事なインプットである「課題」を出してもらうのに、しっかりと個人の頭の中で考えてもらい自分ごとにするというファシリテーションを考えていたのですが、課題を書き出すことよりももっと話を聞くということを選んだ時、そこで見事に私自身がいろいろと「手放す」ことができたのでした。

そして、手放したことでよい結果を得ることができました。実はその最後に譲った時間があったおかげで、パネラーの方の本当に言いたい部分まで到達できる時間となり、聞き手にもぐっと深いものを感じさせる結果になったのです。そしてその深いものを感じさせた状況で綴られた課題には、しっかりと受け取った証とも言える、真剣に書かれた課題が残されたのでした。

真剣に書いてくれたからこそ「差を感じた人」と「得るものがあった人」とに分かれる結果があり、「差」はあっても仕方がないという考えでもあったわけですが、ややもすると「拒絶」とも取れる「差」を前にして「どうする…どうする…」となりました。しかし、そんな状況で「あるもの」が役に立ったのです。

それはアイスブレイクのために書いてもらった「私が猫を好きな理由」。そうなんです。パネラーの人と参加者の間には課題に対する認識や応対に「差」があったのですが、両者ともに「猫に癒されたい」「猫を愛でたい」「猫でほっこりしたい」とか、「猫のその気ままさに惚れたり」と猫のことを考えていて、その想いは「猫と共に過ごせる社会」がないと成り立たないということに気づくことができました。つまりはフューチャーセッションのやり方で言う「共に見つめる未来のゴール」を参加者に伝えることができると気づいたのでした。

そこからは一気に思考のプロセスを組み直して、あとはアンカンファレンスでの参加者の状況(パネルディスカッションセッションにでていない人の割合など)で微調整をするぐらいで準備は整いました。

そして、見事に90分の予定のアンカンファレンスセッションもズレ込み、アンカンファレンスの最初はグループ分け、そして最後には共有時間があるということで、40分程度しかないことが開始してから判明しました。時間を短縮する…。そのために「一気にぐっと場に入り込んでもらい、アイデアの発散集約を一気にやる」必要がでるというベジータの次はフリーザが…ばりにどんどん難易度が上がっていって、このあたりになるともう変わりゆく状況が楽しくなってました(笑)

しかし、運良くというか、たぶんグラフィックレコーダーの方が調整してくれたのだと思いますが、アンカンファレンスでもパネルディスカッションで担当してくれたグラフィックレコーダーの方に担当していただけました。このおかげで可視化プロセス対話プロセスの担当を分けて担うことができたので、かなりやりやすくなりました。そしてその無茶ぶりに応えてくれるグラフィックレコーダーの質の高さに感謝感激でした。

さて、実際にキャットソンでやったことは、パネルディスカッションで得た真剣さと重さと話したい課題を説明するインストラクションで、目指したい未来として「猫と共に過ごせる社会」があることを説明というよりは思い込めて、語らせてもらい、ここにいる人たちの「差」を考えるのではなく「多様性」を活かした場にしたいことを伝えました。そしてパネラーの方には伝えていただいたメッセージを少し軽いものとして扱ってしまうことを謝りました。

そこからは参加者の方に自分なりの「猫と共に過ごせる社会」へのアイデアブレスト出してもらい(私が担当)、ブレストを付箋でやるなら...とグラフィックレコーダーの方から提案があって、KJ法によるブレストグルーピングを参加者を巻き込みながら即興で見える化していただき、可視化プロセスをお願いしている間に私は次のダイアログのやり方を参加人数とブレストグルーピング状況から決めて、一番発言数が多くなる方法を選択して同じグルーピングの内容に共感した人たちでグループに分けました。3人程度が理想でしたが、3人グループ3つの、5人グループ1つという感じになりましたが、グループでの席の配置、人との距離感、そして発言が偏りそうなところへの介入などを行って、発散と収束、そして自分ごとになるように意識を向けてもらいました。このあたりは意識がどう働いたかは、実はわからないのですが、楽しそうに話、まとめたアイデアをしっかりと伝えている感じからは、いいダイアログができたのかなと推測しました。

あ、後、グラフィックレコーダーの方がまとめる作業をされるだろうなとそのあたりの準備はしてみたりはしました。グラフィックレコーダーの方と途中なんども言葉を交わして場の微調整みたいなことをしながらの進行、すごく楽しかったです。ファシリテーション、場作りをしっかりと意識されているグラフィックレコーダーの方と場を進めるのはお互いの専門性を尊重した感じで、なんか変な言い方ですが、誇らしかったです。

というわけで、ファシリテーションをした時間はあっという間に終わって、アンカンファレンス全体の動きも意識しながらだったので、かなり集中してたみたいで、終わった後はぐったりと疲れました。w

ファシリテーターほしいなって思ってもらった知り合いが、「ちょっと来てよ」と誘ってくれたことでこんなにもいい時間を過ごさせてもらいました。感謝です。もっと、普通の人たちが「これはファシリテーターいるといいよね。ちょっと呼ぼうよ」という気軽に活用する時代がもうすぐ来るのかもしれないなと少しワクワクした1日でした。

英語学習の場「BIZ TALK Cafe」に行ってきました。

今夜は知人から紹介された英語の学習の場「BIZ TALK Cafe」に参加しました。

 

そこの場のコミュニティメンバーが4人と、新規参加者が私を含めて2人。そして講師の先生が1人。

時間は19時から21時までの2時間で、最初に自己紹介でアイスブレイクな感じですが、英語学習の場では新規参加者の英語レベルをこれである程度の見ているんだなぁとやっと気付きました。

今回はニュースをトピックにしたテキストを元にした場で、講師の方は基本、英語で授業を進めました。私はぎりぎり聞き流しで聞き取れるなぁと思いましたが、日本の時事ネタなトピックだとある程度補完できてるから分かった感じしてるなと。理由は相変わらず講師から直接質問を受けた時に英語の質問が正確に分かってないから、答えられない...。質問の意図を確認してもなかなか...。ただ、講師の人が質問を繰り返し繰り返し他の人に聞いていくので、回答から、質問の意図を知ることがてがきて、自分なりの答えはメモってみたりはできました。グループ学習の良さのひとつかもしれませんね。たぶん、講師の新規参加者の扱いと、分からなそうな人への「深追いはしない」というモチベーションに対する配慮はできているなぁと。

後は基本英語な場なので、英単語を英語で説明してもらえるのは言い回しとして覚える意味でもよいなと。

最近、新しく見る英単語を直訳日本語で覚えようとしても、変な話、直訳を信じられなくて覚えられないということにぶち当たってます。( ̄▽ ̄;)

また、新規参加者の発言が増えるようにも講師の方は心がけていたし、コミュニティメンバーへも、新しい人たちだから特別に!とちゃんと伝えてました。

この辺りは、既存メンバーと新規参加者がいるグループ学習という側面から、気になっていましたが、前回からの続きでスタートしなければ、ある程度は可能なのだとは思いました。ある程度とは...というのは、新規参加者に配慮する分、積み重ねの学習要素とレベル感を必ずしも上げていける訳ではないので、停滞や低下をせざるえないのではないかなと。MPPでは、ある意味、学習法と知り合うための場になりつつあるので、毎回違う学習法だったりするので、その辺りはあまり問題になりませんが、英語学習のコミュニティだとそのあたりがあるので、回数を固定してclosedな場にするのでしょうね。

そういう意味では、MPPを英語学習のプラットフォームとして、学習者と講師、企業が触れあう場になるのは良い流れかなと。

こちらは毎週月曜日の夜にクチコミでの参加者募集でやられているので、興味を持った方はご紹介します。場所は上野駅近辺です。

それから、懇親会もなく、定期開催ということもあるせいか、「気楽に参加できるな」という感じはしました。

新しい場に参加するといろいろ学びになりますね!

CEDEC 2015でパネルディスカッションのファシリテーターをしてきました

2015年08月26日、「CEDEC 2015」のパネルディスカッション「最高のゲームを目指すチームを支える原動力とは?」にファシリテーターとして登壇してきました。

このパネルディスカッションは、参加者の意思表示ができる形でセッションデザインしました。

パネラーの方に話してもらうテーマを出して、そのテーマを問いとした話の方向性を2択、用意する。

参加者は聴きたい方向を選択し、多数決で多い方向からパネラーには話をスタートしてもらいました。

これは実は「参加者が聴きたい話を選択させる」という要素をメインにしているわけではなく、参加者が話を聴く前に「テーマを自分事として考える」ことが起こることを意図しています。※参加者には「聴きたい話を選べます」と説明しましたが。( ̄▽ ̄;)

特にパネルディスカッションは話の方向性が一本道になりにくい性質があると捉えていました。つまりは参加者が意図する思考道順にならない可能性が高いなと。

その時にただ聴くだけになると、言い方は悪いですが、「振り回されてしまう」可能性があります。もちろん、それに対してホワイトボードに可視化したり、それ様の資料を表示できれば大丈夫かもしれませんが、今回は参加者の傾向(例:エンジニアなのかマネージャーなのか等)によって話す内容も調整していきたいとおっしゃってくださるパネラーの方々でしたので、資料は用意しませんでした。

そこで、一瞬だとしても、または選択した内容が多数決的に少数派で話にありつけないかもしれないとしても、参加者が自分の思いを物差しにしてパネラーの話に耳を傾けることができ、パネラーの話から自分事を持ち帰りやすくなるのではないかと考えました。推測なので間違っているかもしれませんが。(笑)

講演を聴くときも同じなのですが、自分事にすることは大切で、私の場合それは聴き終ってから整理し直すよりも、聴く前に意識していると聴き方が変わったという体験からきています。

ファシリテーターの場の作り方は、現象と見える行動と、その裏側に無意識に働いている要素も想像することも大事かもしれないと、今回のパネルディスカッションをファシリテートさせてもらって考えることができました。

この機会を与えてくれた田口さんと今給黎さんに感謝。そしてこんな変わったやり方のパネルディスカッションにお付き合いいただいたパネラーの田中さん、小林さん、山崎さん、そしてある意味4人目のパネラーだった参加者の方にも感謝します。

ありがとうございました!

ファシリテーターもたまには語りたい(笑)

ファシリテーションを頼みたいのですが、ファシリテーターはどこにいますか?」

私がファシリテーターをした場で参加者の一人から質問されました。

最初、「私がいますよ」と答えかけましたが、ファシリテーションを依頼した場に対して依頼者の状況や求めているものによっては、私がファシリテーションするよりも、よりその場に合う、依頼者が安心して頼めるファシリテーターがいるかもしれないなと思い、その場は、もう少し詳しく話を聞かせてもらうことにしました。

この時、確かにファシリテーターを探している人が、見つけづらいのかもしれないなぁと感じました。さらに、私が知る限りでもファシリテーターは様々な人がいて、初めての人たちが集う場に合うファシリテーター、短い時間で集中した場に合うファシリテーター、参加者が深い話をし合うのに合うファシリテーターなど、ある意味「強み」があるなぁと。そしてその「強み」は、まさにファシリテーターが「どこにいるのか?」を知ることで得られるのかも知れないと思いました。なぜかと言うと、例えば私はITの社外勉強会で、講義の後に参加者同士が話し合う場をファシリテーションしたのが「生まれ」で、扱うテーマは様々で、参加者は自発的に集まった人で、初めて会う人達も多く、比較的に話すのに慣れていない集まりでした。なのでテーマ共有型(講義付き)単発、そして短い時間で初対面な人たちの場でテーマを深めたり、参加者が持ち帰るようにする場に「強み」があります。

そんな「どこにいるのか?」をまずは知りたくて「ファシリテーターズ・インタビュー」なるものを始めてみました。

私の知る様々なファシリテーターをお呼びして、ファシリテーターファシリテーターをインタビューする場。普段、ファシリテーターは自分のファシリテーションについてあまり語りません。なので基本、参加者もファシリテーターファシリテーターになりたいかも?という人てか)というマニアックな場にしてます。( ̄▽ ̄;)

様々なファシリテーターとは、知ってる範囲ですが、まちづくりワークショップファシリテーターだったり、研修のファシリテーターボードゲームファシリテーター、市民活動のファシリテーターイノベーションファシリテーター、リフレクション・ファシリテーターリーディングファシリテーターダイアログファシリテーターなどなど。(笑)

この場から、ファシリテーターの生息地と系譜(原点)が分かってくれば面白いかなと。

と、会社に到着したのでここまで。

インタビューの様子は書くかもしれないし、書かないかも。(^^;

「話さなくてもよい」という場のファシリテーションがある

今夜は以前から誘われていて興味を持ち始めていた「円坐」なるものに参加してきた。「非構成」の場であると知っていて参加しましたが、いい体験ができたなと。

話すことと思考することは違うとか、今日はまさに私は自分の名前を「高柳」と名乗っただけでしたが、場との、そして自分との対話は時間みっちりできました。

遅刻もしてしまったので、場に途中から入る感覚も得られたし、関係性、位置どり、言葉を発していないという状態、ファシリテーターの振る舞い、話さなくてもよいという感覚、目をつぶること、何のために場に言葉をだすのかということ、場というか人というか、対話の場を整えるというか、テーマやコンテンツでないいろんなものを観て、聴いて、語った気がします。

ま、それすら共有せずに帰ったので、「誰?何?」とある意味失礼な参加者だったかもですが。( ̄▽ ̄;)

都立大学駅までの道がまた風が気持ちよくて。

サトシさん、ありがとう。

あ、話さなかったのは、いじわるではなくて、話したくなったら話すという場に素直になりました。言葉として発するのは、伝えたいからなんだなぁと知りました。

そもそも私はファシリテーターの時に話過ぎてるなとも。

帰り道は長いから、もう少し書きます。

関係性が場と人とテーマによって、再構成されていない状態を明確に意識できた気がしました。

最初、知り合いは一人だけで場に遅れて入った時、やはり疎外感はあるんだけど、非構成と意識して来たから、遅刻者すらも遅れた罪悪感は少なくすむのかな...とか考えながらいましたが、ムリ。(笑)
やはり場がどうなってるのかわからないと、自分の性格もあって、何もできない。しかも、勝手に場を乱したことを怒っているかもしれないなとかフィードバック全開。( ̄▽ ̄;)
しかも、沈黙が発生してるから、さぐりさぐり...。

時間がたって、一人、また一人と言葉を発していくと、自分の受ける重さみたいなものは軽くなっていって、自分以外話したら、かなり晴れやかに。

そしてそこから自分だけが言葉を発しない状況に...。たまたま今日の場以外の関係性が自分以外の方々にはあったりしたので、自分の話を伝えるために必要な時間や話題の選び方を考えると、なんとなく「面倒くさいなぁ」と。( ̄▽ ̄;)

場への貢献って何?というか、空気を読まないタイプになってました。

自分の在り方については、横に置いておくと、そういう存在が居たときに、もしかしたら、誰でもわかる一般的な話で共感を見いだそうとかもする可能性もあるなとか、場に在る(居る)ものは全て影響しあうなぁとかも考えたりしました。

なにより「話したくなければ、話さなくていいですよ」という自分も関わるとある場でのファシリテーションが、こんなにも大事というよりも、居心地に影響することが分かりました。

なかなか2時間以上の場で、言葉を交わし合わないでよい場もないですから...。

そんな自分に対して、問いかけもせずに居させてくれた場に、参加者に感謝。

自分のファシリテーションの中心に「ダイアログ」があることがわかった

先日参加した「円座」という非構成の場で言語化というか意識下に置くことができたファシリテーターとしての場への意識。

ワークショップセッションの場にその場に居る人同士がお互いに目を合わせる対話をデザインすること』

『ほそく緩いつながりが作られる場をつくりたい。単発の「点」ではなく「線」を意識する』

『過程に集中しているから、内容は観ていない』

最近の自分のファシリテーションの状況までたどり着いた感じだと、私は内容どころか参加者の顔も覚えてなかったり...なんてのもあったんですが、内容にも入り込んだり、単発でない線な、つながりな場になってくると参加者の顔と名前が認識できるようになって、ファシリテーションの幅と深さは変わってきたかもしれないなぁと。

昔よりも人と関わることへの恐れも減ったかな...

とあるファシリテーターの場の感覚

先日自分の場での感覚について人と話していて、なんとなく文字にできそうだったのでしてみました。
ちょっとポエミーですけど、感覚知ってことでご容赦くださいw

受け取れないものは渡さない。
だから受け取れるカタチにしてみる。
ただこの繰り返し。

いい意味で無責任な無茶ぶりによる、背伸びや挑戦できる状況を造り出す。

依存は生まない。
貢献は生まれる。

違いは単に物事を逆からみてるだけのことで、関わり方のスタンスの違いだけ。

中庸の上に起きる直感(今まで全ての知識の集大成である直感)と場で発生するフィードバックから「少し未来」に向けて判断・選択する。

伝えることはなにか?
伝え方はどれか?
見せてもよい所は?範囲は?

後の先。

そこには自然に流れが収まる何かがありそうだ。